日本人にとって自由・個性の尊重が「自己中心的」になる理由
(2011年11月21日)
少し乱暴なタイトルではありますが、NHKの番組「白熱教室」にて明治大学 小笠原教授の講義を聴いて、感じることがありましたので書きます。
小笠原教授の講義は、日本と海外(特に欧米)との違いを考えるものでした。その中でわかりやすかったの内容を紹介します。
欧米では「私」を表す言葉は1つしかありません。英語では「I」、ドイツ語では「Ich」、フランス語では「Je」です。日本のお隣、中国でさえ「我」しかありません。
しかし、日本語には多くの「私」を表す言葉があります。「わたし」「おれ」「うち」「ぼく」「自分」など。さらに役柄によっても異なります。「先生」「お父さん」「お母さん」など。
これは、「私」の概念が日本と欧米・中国とでは異なることが理由とのことです。欧米・中国は「私」が中心にいて、他者はその周りにいます。だから、状況や役柄によって「私」が変わることは一切ありません。
しかし、日本人は他者との関係の中に「私」が存在するとのことです。これによって、一人称が変わりやすくなります。そして、このことは日本人が「場」や「空気」のようなものを尊重しやすいということにも繋がります。「場」や「空気」と言えば、日本人には大体想像付くことですが、欧米では「場」という考えは、すぐに理解されず「BA」と表記されることもあるようです。
場を重んじることで集団での調和が生まれ、震災においても暴動が起きない精神を生み、自然との調和を重んじて「もったいない」の精神が生まれたと言えるので、この精神は世界に対しても誇るべきことだと思います。
一方で、「自由・個性」の尊重は、「私」を中心に沿えるので、場の概念が少なくなり、調和の精神を忘れて、「自己中心的」な振る舞いに繋がってしまうのではないでしょうか。
つまり、もともとそぐわない概念を無理にいれても、悪い結果になりやすいのではないか、というのが日本人にとって自由・個性の尊重が「自己中心的」になりやすい理由だと思いました。
また、場の中に「私」がいるということは「自由」が少ないとともに「責任感」も少ないと言えます。「自由・個性」を尊重しても「責任感」の概念が薄ければ、「自己中心的」になるのは必然かも知れません。
日本人に責任感が少ないことが、日本人のリーダーの中には何か悪いことが起きても、「部下がやったこと・私は知らなかった」と責任逃れする人も多くいることを如実に表しています。
日本人の「調和」の精神は誇ることですし、世界に発信するべきことだと思います。
しかし、同時に欧米が重視する、「自由とセットの責任」についても、そもそも日本人には少ない概念であると感じました。
そして、今や多くの仕事において、海外との関係は切り離せないので、これからの日本人は「責任感」を学び、身に付けていく必要があると思います。
ではどのようにすれば、「場」を重んじる日本人にも「責任感」が芽生えるのか、という疑問が残ります。これを読んで頂いた方も、是非考えて頂ければと思います。